がんちむの備考帳

身近なことを一生懸命考えると、どうでもいいことがどうでもよくなくなったり、どうでもよくないことがどうでもよくなったりします。

宇宙旅行

先日、日本人宇宙飛行士の油井亀美也さんが、ロシアのソユーズロケットで宇宙へと飛び立った。


日本人宇宙飛行士に限った話ではないが、このような宇宙の話題を見聞きすると、いつも思うことがある。


宇宙旅行に行きたい。


私は子供の頃からガンダムなどのSF物が好きだったが、大人になった今でも、宇宙開発が進んだ未来を想像してわくわくする。


自分が生きている間に、気軽に宇宙に行けるような時代が来るだろうか。そんなことを考えると、いろんな想像が湧いてきて楽しくもなるが、その一方で果てしなく遠い未来のように感じて、やはり難しいだろうかと思ったりもする。


だが、今のおじいちゃん、おばあちゃん世代が子供の頃には、人類は宇宙にすら行っていなかった。


ガガーリンが1963年に、「地球は青かった」と発言してから数十年の間に、人類は月にも行ったし、現在では、宇宙に複数人が何か月も滞在してあらゆる実験を行なっている。


その進歩の速さを鑑みると、あながち宇宙旅行も夢物語ではないのかもしれない。


厳密には、民間の宇宙旅行はもう実現している。アメリカのヴァージン・ギャラクティックなる会社が提供している宇宙旅行は、約一時間半のフライトになっており、宇宙に行くのに約45分、帰還するのに約45分、そして宇宙空間にいられるのはたったの4分だけというものだ。


このツアー、3日間の事前訓練も含めて、お値段が20万ドル(約2400万円)。


笑ってしまうような馬鹿みたいな金額だが、このツアーに喜んで財布を開くお金持ちはたくさんいるようで、日本人も含めて、世界中から数百人が申し込んだらしい。


私はというと、もちろんそんな大金は払えないが、仮に払えたとしても、そんなツアーには参加しないと思う。


私が行きたいのは、お金持ちのためではなく、大衆のための宇宙旅行である。新幹線や旅客機のように、少しお金はかかるけど、絶対に手がでないわけではない。そんな宇宙旅行である。


ホテル代込みで十万円くらいの予算で行けるような。ちょっとした海外旅行に行く感覚で宇宙にも行けたらいいと思う。


私は学生時代、観光を勉強していたのだが、ゼミでの発表テーマが「宇宙旅行」だったことがある。


それで資料を探すために大学内の図書館に行ったのだが、そこである本を見つけた。


それは宇宙エレベーターに関する本だった。


著者はトルコ人の工学者で、宇宙飛行士候補生にもなった人物なのだが、私はこの本を読んで、いたく興奮した。


ガンダムの世界もいずれは現実になるのだなと、目を爛々と輝かせて読んだ。


もちろん、これは主観であり、図書館にいた他人からすれば、若干瞳孔が開いた怪しい男に映っただろう。


何はともあれ、私は宇宙に行く方法としてのエレベーターという知識を仕入れたわけだが、いろいろ調べていくうちに、さらに胸躍る記事に辿り着いた。


それは、日本の建設会社である大林組が、2050年までに宇宙エレベーターを作るというものだった。


おお!これは!


2050年といえば、まだ私は60代なので、十分に生きている可能性がある。いよいよ人類もここまで来たか。私はそう思った。


そんな情報も織り交ぜつつ、発表もなんとか無事に終わり、私は改めて、宇宙エレベーターを知るきっかけになったその本の著者であるトルコ人について調べてみた。


ちゃんとWikipediaにもその名前は出てきた。


自称工学士とあった。


自称?


読んでみると、東大の大学院から博士号を取得した旨が書かれていたが、その後、不正な手段だったことが判明し、学位取り消し処分を受けたらしい。


そうだ、著者はペテン師だったのだ。


今j本の内容を思い返せば、やけに著者自身の栄光に満ちた人生も語られているなと思うが、読んでいるときはそんなことにも気づかずに、目を爛々と輝かせて読んだ私である。


というか、そんな人の本を大学の図書館に置いていいのか?


そんな不満を抱きながらも、自身の単純さにもあきれた経験である。


だが何はともあれ、大林組宇宙エレベーター計画はわりと本気らしいので、そんな時代のためにも、宇宙で頑張る現在の飛行士たちや科学者たちを応援したいと思う。



お金お金お金~♫

叔母が本を貸してくれた。

タイトルは「億男」。

なんとも景気のいいタイトルで、最初は金儲けか何かの本かと思ったのだが、小説だった。作者は川村元気さんという方で、映画のプロデュースなどをされている方だ。

宝くじで3億円を当ててしまった男が、『お金と幸せの答え』を探すというストーリーだったのだが、読みながら、もし自分が3億円の宝くじを当てたら、私はどうなってしまうのだろうと真剣に考えることになった。

私の手元に3億円・・・

金額が大きすぎてうまく想像力が働かない。

家を買う。車を買う。旅行に行く。豪華なディナーを食べにいく。

ベタな発想だけは頭に浮かぶが、その先がなかなか出てこない。

だがよくよく考えてみると、本気で家が買いたいわけでもないし、食事なんてコンビニ弁当でも満足できる。車を買わなくても、バスや電車を利用すればいいし、必要とあらばレンタカーという手がある。服もユニクロで事足りる。旅行は割と本気で行きたいと思っているが、それ以外に本気で欲しいものなんて、あまり思い浮かばない。

3億円が手に入っても、おそらくは預金に回すことになるのだろうな。

私はそう思った。

しかしそんなことを思うのはやっぱり虫のいい話だろうか。

実際にそんな大金が手元にあったら、人格も変わってしまうのではないだろうか。

そんな不安要素もちらほらと耳にする。

お金を手にした途端に、今までの倹約が嘘のように散財してしまったり、自分に寄って来る人はみんなお金目当てに見えて、人が信用できなくなったり、お金がなかった時よりも逆に疲れ切ってしまう事例というのもたぶんあるのだろう。

お金に使われていると言われればそれまでだが、お金の魔力に対抗できる人なんて、一体どれくらいいるのだろう。<

金持ちの悩みなんて知ったこっちゃねえぜ。

そういう気持ちも私の中には確かにある。

確かにあるのだが、私には「いくらお金があっても自分は変わらないぜ」と言える自信はあまりない。

なぜなら、お金が無いよりもあった方がいいのは事実だし、私自身の今の人格だって、良くも悪くもお金によって形成されたといっても過言ではない気がするからだ。

家族構成、住環境、習い事、進学・・・

これら全てにおいてお金が関わっている。

資本主義の社会で生きている以上、これは紛れもない事実だろう。

だがまあ、そんなことを言ってみたところで、貧乏人の私が3億円の心配するのは一種の杞憂なのかもしれない。

財布の中の数千円をどう使うかで毎日頭の中はいっぱいである。

果たして私の幸せに、何億ものお金が必要だろうか。

その答えはおそらくNOだ。

本を読み終えたとき、私はそう思った。

だが、必要ではないかもしれないと思いつつ、欲しいという気持ちがあるのもまた事実だった。

人の欲望って際限がないですね。

軽い気持ちで読んだ本だったが、まだ人生経験が浅い小僧には、いささか難しい問題を突きつけられた気がする。

翌日、私は宝くじ売り場の前に立っていた。

絶景とはいかに

ネットの検索エンジンで「世界の絶景」とか「綺麗な風景」などと入力すると、まとめサイトなどで地球上にある様々な美しい風景画像を見ることができる。

夢の中だけでもそんな場所に行けないだろうかと、寝る前にぼんやりとそれらの画像を眺めたりするのだが、昨日の夢に出てきたのはなぜか大量のステーキ肉だった。次々に運ばれてくるステーキをひたすら食べるという夢だ。

朝目覚めたとき、私は非常に満ち足りた気分になっていた。それはそれでありがたい夢だったが、見たいときに見たい夢が見れないというのが人間の脳の難しいところでもある。それが潜在意識に潜む願望なのかどうかはわからないが、どちらにせよ、夢でこれだけ幸せな気分になれるのなら、実際に自分がネットで検索したような絶景のある場所に行ったとき、その感動はいかほどのものになるのだろうか。

今日も片手間に、画像を眺めながらそんなことを考えた。その場所に行って、そこで自分はどんなことをしたいだろうか。トルクメニスタンにある地獄の門に、超巨大な金網を被せて、その上で焼肉をやってみたり、サハラ砂漠のオアシスに真っ裸で飛び込んでみたり、グランドキャニオンで、ミスチルの桜井さんみたく両手を広げてtomorrow never knowsを熱唱してみたり、ピラミッドの頂上でランバダ踊ったり。

そんなイメージトレーニングだけは念入りにできてしまう。しかし、もし本当にそれらの場所に自分が立ったとして、そのときに何を感じるかなんて、実際にそこに行ってみなければわからないものだ。あまりの素晴らしさに、言葉をなくしてただ立ちすくむかもしれないし、逆に、予想外の陳腐さにがっかりして不平を漏らしてしまうかもしれない。もしかしたら、ランバダではなくブレイクダンスを踊りたくなるかもしれない。とはいえ、現在の私には、そこに実際に行けるあてもなければ金もない。世界の絶景巡りなんて、夢のまた夢である。どうせ私には脳内旅行を楽しむことくらいしかできないのだ。とほほ。そう思った。

しかし、そんな淡い妄想と失望を抱きながら画面をスクロールしていると・・・。

ん?

一つの絶景画像に目が留まった。頭上一面に広がる紫色のアーチ。オーロラのヴェールのように降り注いでいるそれは、藤の花だった。その他の絶景同様、その美しさに心を奪われていた私だったが、場所を確認して驚いた。それは、私の地元だったのだ。

・・・マジか?

もう一度地名を確認するが、どう見てもそこは私の地元だった。その絶景は河内藤園という場所で、海外の絶景に混じって紹介されていた。地元贔屓をするわけではないが、私はその写真を見て、本当にきれいだと思った。別のサイトによれば、2015年にアメリカのCNNが選んだ「日本の最も美しい場所31選」とやらにもエントリーされているらしい。灯台下暗しというかなんというか、私は生まれてこのかた一度もそこに行ったことがない。いつも遠くにある風景ばかりを羨望の眼差しで見つめていたのだ。

だがよくよく考えれば、私の住んでいる場所だって、世界の一部なのだ。何が絶景と呼べるかは、個人がどういう目線をそれを見るかも大きいのだろう。もしかしたら、私のアパートから半径数キロ以内でも、はっと息を飲むような光景が見られるかもしれない。

藤の咲く季節になれば、ここに行ってみよう。私はそう思うと同時に、身近な風景にもより焦点を当てたい気持ちになった。一応、藤の下ではランバダもブレイクダンスも踊らないつもりだ。

ジェネレーションギャップ

テレビで昭和の歌を集めた番組をやっていた。


昭和40年代~50年代の歌謡曲の売り上げをランキング形式で発表したものだった。


昭和40年代~50年代といえば、1960年代~1970年代というところなので、平成生まれの私にとっては、社会科の授業で高度経済成長期として、答案用紙に記入するくらいしか縁のない時代である。


当然だ。私の親ですら、まだ子供だった時代なのだから。


とはいえ、番組中で出てきた曲の中には、現在でも広く親しまれているものも多くあり、私もよく耳にするような曲が、何十年も昔の曲だったと知っても特に違和感はなかった。


いい曲は時代が変わっても色あせないのだな、などと偉そうなことを考えたりもした。


しかしながら、やはり時代の流れというのはあるもので、聴いていると現在の価値観とはずいぶんかけ離れていると思うような歌詞もちらほら。


中でも、殿さまキングスなるグループの「なみだの操」という曲には少なからぬ衝撃を受けた。



なみだの操

                                    作詞 千家和也
                                    作曲 彩木雅夫
                                      唄 殿さまキングス


あなたのために 守り通した女の操
今さら他人に ささげられないわ
あなたの決してお邪魔はしないから
おそばに置いてほしいのよ
お別れするより死にたいわ 女だから

あなたの匂い 肌に沁みつく女の操
すてられたあと 暮らして行けない
私に悪いところがあるのなら
教えてきっと直すから
恨みはしませんこの恋を 女だから

あなたにだけは 分かるはずなの女の操
汚れを知らぬ 乙女になれたら
誰にも心変りはあるけれど
あなたを疑いたくない
泣かずに待ちますいつまでも 女だから






私にはこの歌を貶める意図は一切ないことをあらかじめ断っておく。
その上で誤解を恐れずに率直に言おう。









・・・重っ!






私はそう思った。
現代の若い女性たちが聴いたら、ミジンコほどの共感も得られそうにない。


私の姉が聴いたら、ジェネレーションギャップをくすりと笑うだけで済むかもしれないが、従姉のMちゃんだったら、「ばっかじゃねえの」などと言ってばっさりと袈裟に斬って捨てるだろう。


女性の生き方に関する価値観はかなり変わったと言っていい。


そうは言うものの、私は歌に出てくるこの女がその後どういう末路を辿ったのか、そっちの方もまた気になってしまっていた。


というのも、なぜか捨てられることが前提のような歌詞が想像力をかきたててしまうからだ。
そういった意味では、この歌はやはり名曲なのだろう。情景が浮かばない曲なんて、聴く価値すらない。


だが、私の頭の中に浮かんだ情景と、当時この曲を聴いた人たちが思い浮かべた情景が同じだという保証はもちろんない。


私が勝手に描いたその後では、この女は十中八九、ヤマンバ化する。
ガングロギャルなんてものではない。
正真正銘の山姥になる。
断じてティンカーベルにはならない。


こういう一途な恋心を全うして、結果的に報われたなら、それは美談として語るに足るだろう。だがそうはならなかった場合(おそらくはならない)、この女は怨念の坩堝にはまる。



一番で「お別れするより死にたいわ」と言っているが、三番では「泣かずに待ちますいつまでも」となる。


どっちやねん。


と軽くツッコミを入れておくが、それと同時に、歌が三番まででよかったなと思った。
まさに歌の中で、女は山姥への進化過程なのである。


潔さなどかなぐり捨てて、どこまでも愛憎の炎を燃えたぎらせる最終形態の片鱗を見せたところで歌は終わっているのだ。


もし四番があったなら、「おそばにいなけりゃ 呪います」となり、最後は、「愛してくれなきゃ 殺します」くらいになっていくのだろう。


深い森の奥にある一軒の山小屋。
大きなかまどで揺らめく紫色の炎の上で、大鍋をかき混ぜながら黒魔術でも唱えている老婆の姿が脳裏に浮かんでいる。


これが私の想像した「なみだの操」もとい昭和版こじらせ女子の末路である。


そもそも問題の男はどこに行ったのだ?
このような女性の心を汲むのが殿方の作法というものだったのだろうか。
私にはよくわからない。


歌詞の最後に、すべて「女だから」の一言で片づけてしまうという暴挙もさることながら、よくよく考えれば、作詞も作曲も、歌っているもの全員男ではないか。


歌っている殿様キングスの、他の曲も少しだけ調べてみたが、「おんなの運命」や「女の純情」なんて曲名が目についてしまう。


一応それらの歌詞も読んでみたが、一行一行読むたびに、歌詞から女の怨念が滲み出てくるような感覚に陥った。


もうそんな男は諦めて、さっさと他の男を探しなさいよ。
歌に出てくる女にそう言ってあげたくなる。


しかし、当時「なみだの操」がヒットしたというのは紛れもない事実であるし、作詞をした千家先生も数多くの曲を世に送り出した偉大な作詞家だ。


これが時代というものなのか?


あと何十年かしたら、私たちが今聴いているようなJポップやロックが、ダサいと思われるような時代になるのだろうか。


そして子供や孫たちにからかわれることになるのだろうか(おそらくなるのだろう)。


You Tube西野カナの『会いたくて 会いたくて』を聴きながら私はそう思った。


未来の若者たちの声が脳裏に響く。


「震えるってなにそれ~!禁断症状かなんか~?マジうけるんだけど~(爆)」










ガガンボ

我が家の風呂場に、最近よくガガンボが出る。

足が長くて、胴体も細長くて、おまけに羽も薄っぺらい。

蚊を大きくしたような、あいつである。


そもそも私は、奴らにガガンボという名前があることすら知らなかった。

インターネットの検索エンジンで、「風呂に出る虫 足が長い 蚊のような」と入力したら、それらしきものが出てきたので、それで奴の名前を知ったのである。


ネットでは、ガガンボを忌避する声ばかりが目立っていた。

中には、ガガンボが家の中にいること自体で、基本的な人権を脅かされているなんて声までも。


何を大げさな、と思ってしまった私だが、無論、感じ方は人それぞれである。


福山雅治がかっこいいと狂喜する娘もいれば、ラジオでエッチなことばっか言ってたただのスケベなおじさんだと斬って捨てる淑女もいる。

ガガンボを死ぬほど嫌ってる人間もいれば、愛してやまない人間もいるのだろう(たぶん)。

まあ確かに、ガガンボの見た目はおどろおどろしい面がある。特にあの不自然に長い足に、ネットの多数派が嫌悪感を抱くのもわからないではない。



だが私はというと、奴らがそれほど嫌いではない(かといって好きでもない)。

見た目とは違い、蚊のように人を刺すわけでもないし、人間には全く害のない虫である。放っておけばいいじゃん、くらいに思っている。

思っているのだが、私もどうやら、違った意味でこの虫が気になって仕方がない人間になってしまったらしい。


お風呂に入っていると、ふらふらと揺れながら目の前を飛びすぎていき、タイルの壁にとまる。


私は試しに手で捕まえてみようとするのだが、これがびっくりするくらい簡単に捕まえられるのだ。

壁にとまっているものに限らず、飛んでいるものでもすぐに捕まる。

壁に数匹が集まってとまっているとして、上からシャワーをかければ、みんなそろってしゅわわ~と下に流れていく。

この抵抗感のなさに、私は同情という感情すら抱いた。


すばしっこい上に、人さまの血液を無断でかっさらっていく、あの
忌々しい蚊どもに比べたら、ずいぶんとかわいい奴らではないか。


浴室で、空気中を漂うように飛んでいるガガンボたちを見ているうちに、いつしか、愛嬌みたいなものを感じ始めている自分がいた。


そこで、このガガンボについてちょっと調べてみることにした。

Wikipediaにも、ちゃんとガガンボのページはあった。

短い内容のページだが、そこにはこう記されていた。



「成虫の形態はカ(蚊)を一回り大きくしたような感じの種類が多い。ただしカと違い人を刺したり吸血したりすることは無い。また体も貧弱で死骸もつつけばすぐバラバラになってしまう。飛行速度についても決して敏速ではないが、人口密度の高い地域では身を守るため機敏な場合がある。とはいえ、実際はあまり強い虫ではない。」



さらりと「体も貧弱で」などと書かれているあたり、ますます哀れに思えてくる。

 
私はついでに、外国語で書かれたページも見てみることにした。ガガンボは世界中に生息しているらしいので、外国語ではどんな風に書かれているのかがちょっと気になったのだ。結局、35の言語で書かれていた。

もちろん、外国語なんてわからない私だが、かろうじて理解できるかもしれないと思えた英語のページをクリックする。


そのページは表示された。


薄い期待も空しく、何が書いてあるのかまったくわからなかった。

だが、文字量の多さからして、日本語ページより詳しく書かれてあることは確かだ。しかも、日本語ページにはなかった、拡大したガガンボ頭部の写真まで載ってある。

なんだこいつは。

写真を見た私はそう思った。

これが、愛着すら感じ始めていたあのガガンボの姿か。

ギンギンした緑の複眼、細長い口から出る触手のような物体、おまけに、微妙に鼻毛みたいなものまで生えている。

すっかり萎えてしまった私は、そのページを閉じてしまおうかと思った。

しかし、これまで何匹ものガガンボを素手で捕まえ、シャワーで流し、おまけにお風呂の洗剤を吹きかけて、排水溝に流してきた私は、このまま奴らの生態を詳しくしらないまま、そのページを閉じることに、何とも言えない罪悪感のようなものを感じた。


ためらいながら、もう一度写真に目を向けると、
その拡大された複眼が、「俺のことをもっと知ってくれ!」と訴えているような気さえしてきた。


他の虫だったらきっとこんなことは考えないだろう。だが、風呂場にたむろするガガンボたちは、今や、ひと時だけの我が家の住人と化していた。


意を決して、電子辞書を片手に読み始めた。


そもそも単語がわからないから、その度に辞書で検索することになる。

そしてまた厄介なことに、専門的な単語の多いこと。電子辞書には載っていなくて、ネットで調べてようやくわかる単語というのも多々あった。

tipuloidea(双翅目ガガンボ上科に属する昆虫の総称)やparaphyly(側系統)、sternite(腹板筋片)なんて単語は、英語が得意な人でもなかなかお目にかからない単語だと思う。


正直言って、私は日本語の双翅目が何を意味するのかすら知らなかった。

*双翅目・・・見た目には2枚しか翅がないように見える昆虫


そんなこんなで、よくわからないままに読み進めていったのだが、おおまかにガガンボの生態について知ることができた。


・成虫になったガガンボは10~15日しか生きないために、何も口にしないこと。

・幼虫はレザージャケットなんてかっこいい名前でも呼ばれていること。

・クモ、魚、両生類、鳥、哺乳類など、天敵が多いこと。

・ヨーロッパでは害虫としての認識が強いこと。


そんな中でも、私の目を引いたのは、こんな部分だった。

"The adult female usually contains mature eggs as she emerges from her pupa, and often mates immediately if a male is available. Males also search for females by walking or flying."

(成虫のメスは、さなぎから出てきたときにはすでに成熟した卵を抱えており、オスがいればすぐに交尾する。オスもまた、歩いたり、飛んだりしながらメスを探す。)

あの長い足で歩きながら、メスを求めるオスの姿を想像すると少し滑稽に思えたが、残された時間の少なさもあってか、ガガンボたちは子孫を残すことにそれだけ必死なのだなと、私は納得した。

そのページは、二匹のガガンボが尾部を突き合わせて交尾している写真まで載せてくれていた。
 
親切なことだと思う。




さてその夜、私が風呂に入ろうとして浴室に入ると、目の前のタイル張りの壁で、二匹のガガンボが交尾をしていた。


体勢は写真とは若干異なっていたが、それは確かに交尾だった。


人の家の浴室で事を為すとは、なかなか度胸が座っている。


垂直な壁の上で交尾をするというのは、一体どんな気分なのだろう


そんな疑問も抱いたが、私にはその光景がなぜか微笑ましく思えてしまった。


ほとんど仲人のような気分になって、その日はガガンボたちにお湯がかからないようにしてシャワーを浴びた。













恐竜

もし恐竜が現代に蘇ったら…。

こんな問いをされて真っ先に思い浮かべるのはあの映画だろう。そう、「ジュラシック・パーク」。

1993年に公開されてから、今年で22年なるが、未だに子供の頃に観た衝撃は忘れられない。

あんなテーマパークが本当にあったらと考えただけで、当時小学生にもなっていなかった私は興奮で胸が踊った。

今こうしてこの文章を書いている間も、頭の内側では、ジョン・ウィリアムズが作曲したあの有名なテーマソングがオーケストラの演奏によって雄大に響き渡っている。



さて、八月に公開される映画「ジュラシック・ワールド」。

ご存じ、「ジュラシック・パーク」、「ロストワールド:ジュラシック・パーク」、「ジュラシック・パークⅢ」と続いた、恐竜エンタメ作品の第4弾である。


今回のは、今までのシリーズで一度もオープンすることがなかったあのテーマパークがついに開業するという設定らしく、是非とも劇場に足を運ばなければと思っている次第なのだが、子どもの頃に私が受けた衝撃は何も、CGを駆使したリアルな恐竜や、島の雄大な大自然に対してだけのものではない。


人間が恐竜の餌食になるシーンもまた、私がこの映画を忘れなれない理由の一つだ。

いつ恐竜が襲ってくるのか、誰が生き残るのかがわからない展開にハラハラドキドキさせられた(個人的にお気に入りの俳優サミュエル・L・ジャクソンが演じたアーノルドさんだって、食い殺されて腕だけになって発見された)。

しかも、食べられる描写がまた生々しいことこの上ない。Tレックスに上半身からパクリといかれて、ぶんぶんと振り回された挙句、まるで人形のように引きちぎられる場面では、思わず顔をしかめた。


「恐竜に食べられて死ぬのと、サメ(ジョーズのこと)に食べられて死ぬのだけは絶対にいやだわ」


私の母はよくそう言っていた(奇しくも、どちらもスピルバーグ作品)。


同感だ。私も五体満足のままで死にたい。


だが、文頭の問いに戻ることになるが、もし恐竜が現代に蘇ったら、そしてもし映画のように、人間を襲うようなことになれば、私たちの社会は一体どうなってしまうのだろうか。


どうやらそんな問いを科学的に考えた人がアメリカにいるようなので、その方の記事を紹介する。


その記事はScienceNewsに掲載された。筆者のサラ・ジエリンスキーはこう語る。

「一頭のモササウルスやプテロサウルス、Tレックスなどが逃げ出しても、21世紀のアメリカ本土では、限られた損害しか生じえない。もしそれらが厄介なことになれば、最終的に人々は対処するだろう。結局、私たちは動物園から逃げ出したライオンや虎を闊歩させたままにはしない」

そいつぁ、ごもっとも。
確かに、いくらTレックスでも、戦車から砲撃を一発食らえばそれでお終いである。



至極当たり前の言葉に、私は少々拍子抜けした。望んでいるわけではないが、もっと危機的な状況が語られることを、心のどこかでは期待していたのだ。

だが、この記事には続きがある。

「本当の問題は、もしこれらの種の一つが、侵略的になった場合に限り起こり得る。新しい環境に定着するよう管理された複数種が、ある種の損害をもたらすということだ」


つまりはウイルスのように、環境に適応してしまったら恐ろしいことになるということらしい。


彼女はそれらの種が新しい環境に定着するための条件として、以下の4つを挙げている。

①新しい環境で天敵が少ないこと

②多くが異なるタイプの生息地での耐性

③食物を得るための原種生物との競争能力

④すばやい成長と繁殖


どれをとっても私にはないものだが、恐竜たちにとってはどうだろう。

記事曰く、

一つ目の条件は、人間という最大の天敵がいるために当てはまらない。二つ目と三つ目に関してはわからない。

しかし、四つ目の条件が油断ならないらしい。

「原作のジュラシック・パークでは、すべての恐竜たちは雌になるように育てられていたために、自身では繁殖できなかった。しかし、いくつかの恐竜は明らかにそれをやってのけた(雄への変異なのか、単為生殖なのかは限定されていない)。だからこそ、生殖は可能だった」

次に、その成長速度についても言及している。

ジュラシック・パークやジュラシック・ワールドの爬虫類たちはすべて中型から大型で、一度にかえる卵の数は少なく、成長にも時間がかかる。これらの動物の集団は増殖も遅く、定着するのは困難だろう」

ということは、結局現代の私たちにとって、恐竜は脅威になりえないということか。私はそう思った。


しかし、やはりというべきか、話はそう簡単には終わらなかった。


「恐竜よりも心配なことがある」そう書かれていた。「植物だ」

植物?

私は首をかしげた。

なんとも、ジュラシック・パークに出てくる植物のうち、少なくとも一種類は、過去から復活させられたもので、その背後にあった科学については説明されていないが、他の植物も同様にして復活させられていたと、記事では断言しているのだ。


さらには、島への頻繁な人の往来によって、種や植物物質が意図せずに本土まで旅をしてしまうことができる。それに、もし一部の人が、ビジネス目的でこれら太古の植物に目をつけたら、その植物はいたるところに拡散しうる、とも。


爬虫類とは違い、植物の上陸は認識されづらいし、一度上陸してしまった侵襲的な植物の根絶は、不可能でないにしても、とても難しいのだそうだ。

記事の最後はこう締めくくられていた。


「ありがたいことに、これらのシナリオは私の頭の中だけで働いている。我々はすでに、十分すぎるほどの侵略性の種の問題を抱えているのだ」


この記事を書いたサラ・ジリエンスキーが一体どんな姿の植物を想像していたのかは不明だが、少なくとも生態系への影響を懸念していることはよくわかった。





私はというと、久しぶりに、ポケモンウツボッドを思い出していた。

巨大な口を開けてせわしなく動き回る食虫植物の姿だ。


ウツボッドとまでは言わないが、人間を食べてしまうほど大きな植物が、現代に復活して繁殖したらと考えると、それはそれで気苦労が増えそうだ。


山登りに出かけた人たちが、生えていた植物に襲われて逃げ惑っている様子を想像しながらも、私の頭の中では、まだ雄大なテーマソングが流れている。


「植物に食い殺されるのだったらどう?」

今度は母にそう訊いてみようと思った。


記事:https://www.sciencenews.org/blog/wild-things/could-dinos-%E2%80%98jurassic-world%E2%80%99-become-invasive