がんちむの備考帳

身近なことを一生懸命考えると、どうでもいいことがどうでもよくなくなったり、どうでもよくないことがどうでもよくなったりします。

絶景とはいかに

ネットの検索エンジンで「世界の絶景」とか「綺麗な風景」などと入力すると、まとめサイトなどで地球上にある様々な美しい風景画像を見ることができる。

夢の中だけでもそんな場所に行けないだろうかと、寝る前にぼんやりとそれらの画像を眺めたりするのだが、昨日の夢に出てきたのはなぜか大量のステーキ肉だった。次々に運ばれてくるステーキをひたすら食べるという夢だ。

朝目覚めたとき、私は非常に満ち足りた気分になっていた。それはそれでありがたい夢だったが、見たいときに見たい夢が見れないというのが人間の脳の難しいところでもある。それが潜在意識に潜む願望なのかどうかはわからないが、どちらにせよ、夢でこれだけ幸せな気分になれるのなら、実際に自分がネットで検索したような絶景のある場所に行ったとき、その感動はいかほどのものになるのだろうか。

今日も片手間に、画像を眺めながらそんなことを考えた。その場所に行って、そこで自分はどんなことをしたいだろうか。トルクメニスタンにある地獄の門に、超巨大な金網を被せて、その上で焼肉をやってみたり、サハラ砂漠のオアシスに真っ裸で飛び込んでみたり、グランドキャニオンで、ミスチルの桜井さんみたく両手を広げてtomorrow never knowsを熱唱してみたり、ピラミッドの頂上でランバダ踊ったり。

そんなイメージトレーニングだけは念入りにできてしまう。しかし、もし本当にそれらの場所に自分が立ったとして、そのときに何を感じるかなんて、実際にそこに行ってみなければわからないものだ。あまりの素晴らしさに、言葉をなくしてただ立ちすくむかもしれないし、逆に、予想外の陳腐さにがっかりして不平を漏らしてしまうかもしれない。もしかしたら、ランバダではなくブレイクダンスを踊りたくなるかもしれない。とはいえ、現在の私には、そこに実際に行けるあてもなければ金もない。世界の絶景巡りなんて、夢のまた夢である。どうせ私には脳内旅行を楽しむことくらいしかできないのだ。とほほ。そう思った。

しかし、そんな淡い妄想と失望を抱きながら画面をスクロールしていると・・・。

ん?

一つの絶景画像に目が留まった。頭上一面に広がる紫色のアーチ。オーロラのヴェールのように降り注いでいるそれは、藤の花だった。その他の絶景同様、その美しさに心を奪われていた私だったが、場所を確認して驚いた。それは、私の地元だったのだ。

・・・マジか?

もう一度地名を確認するが、どう見てもそこは私の地元だった。その絶景は河内藤園という場所で、海外の絶景に混じって紹介されていた。地元贔屓をするわけではないが、私はその写真を見て、本当にきれいだと思った。別のサイトによれば、2015年にアメリカのCNNが選んだ「日本の最も美しい場所31選」とやらにもエントリーされているらしい。灯台下暗しというかなんというか、私は生まれてこのかた一度もそこに行ったことがない。いつも遠くにある風景ばかりを羨望の眼差しで見つめていたのだ。

だがよくよく考えれば、私の住んでいる場所だって、世界の一部なのだ。何が絶景と呼べるかは、個人がどういう目線をそれを見るかも大きいのだろう。もしかしたら、私のアパートから半径数キロ以内でも、はっと息を飲むような光景が見られるかもしれない。

藤の咲く季節になれば、ここに行ってみよう。私はそう思うと同時に、身近な風景にもより焦点を当てたい気持ちになった。一応、藤の下ではランバダもブレイクダンスも踊らないつもりだ。