がんちむの備考帳

身近なことを一生懸命考えると、どうでもいいことがどうでもよくなくなったり、どうでもよくないことがどうでもよくなったりします。

ガガンボ

我が家の風呂場に、最近よくガガンボが出る。

足が長くて、胴体も細長くて、おまけに羽も薄っぺらい。

蚊を大きくしたような、あいつである。


そもそも私は、奴らにガガンボという名前があることすら知らなかった。

インターネットの検索エンジンで、「風呂に出る虫 足が長い 蚊のような」と入力したら、それらしきものが出てきたので、それで奴の名前を知ったのである。


ネットでは、ガガンボを忌避する声ばかりが目立っていた。

中には、ガガンボが家の中にいること自体で、基本的な人権を脅かされているなんて声までも。


何を大げさな、と思ってしまった私だが、無論、感じ方は人それぞれである。


福山雅治がかっこいいと狂喜する娘もいれば、ラジオでエッチなことばっか言ってたただのスケベなおじさんだと斬って捨てる淑女もいる。

ガガンボを死ぬほど嫌ってる人間もいれば、愛してやまない人間もいるのだろう(たぶん)。

まあ確かに、ガガンボの見た目はおどろおどろしい面がある。特にあの不自然に長い足に、ネットの多数派が嫌悪感を抱くのもわからないではない。



だが私はというと、奴らがそれほど嫌いではない(かといって好きでもない)。

見た目とは違い、蚊のように人を刺すわけでもないし、人間には全く害のない虫である。放っておけばいいじゃん、くらいに思っている。

思っているのだが、私もどうやら、違った意味でこの虫が気になって仕方がない人間になってしまったらしい。


お風呂に入っていると、ふらふらと揺れながら目の前を飛びすぎていき、タイルの壁にとまる。


私は試しに手で捕まえてみようとするのだが、これがびっくりするくらい簡単に捕まえられるのだ。

壁にとまっているものに限らず、飛んでいるものでもすぐに捕まる。

壁に数匹が集まってとまっているとして、上からシャワーをかければ、みんなそろってしゅわわ~と下に流れていく。

この抵抗感のなさに、私は同情という感情すら抱いた。


すばしっこい上に、人さまの血液を無断でかっさらっていく、あの
忌々しい蚊どもに比べたら、ずいぶんとかわいい奴らではないか。


浴室で、空気中を漂うように飛んでいるガガンボたちを見ているうちに、いつしか、愛嬌みたいなものを感じ始めている自分がいた。


そこで、このガガンボについてちょっと調べてみることにした。

Wikipediaにも、ちゃんとガガンボのページはあった。

短い内容のページだが、そこにはこう記されていた。



「成虫の形態はカ(蚊)を一回り大きくしたような感じの種類が多い。ただしカと違い人を刺したり吸血したりすることは無い。また体も貧弱で死骸もつつけばすぐバラバラになってしまう。飛行速度についても決して敏速ではないが、人口密度の高い地域では身を守るため機敏な場合がある。とはいえ、実際はあまり強い虫ではない。」



さらりと「体も貧弱で」などと書かれているあたり、ますます哀れに思えてくる。

 
私はついでに、外国語で書かれたページも見てみることにした。ガガンボは世界中に生息しているらしいので、外国語ではどんな風に書かれているのかがちょっと気になったのだ。結局、35の言語で書かれていた。

もちろん、外国語なんてわからない私だが、かろうじて理解できるかもしれないと思えた英語のページをクリックする。


そのページは表示された。


薄い期待も空しく、何が書いてあるのかまったくわからなかった。

だが、文字量の多さからして、日本語ページより詳しく書かれてあることは確かだ。しかも、日本語ページにはなかった、拡大したガガンボ頭部の写真まで載ってある。

なんだこいつは。

写真を見た私はそう思った。

これが、愛着すら感じ始めていたあのガガンボの姿か。

ギンギンした緑の複眼、細長い口から出る触手のような物体、おまけに、微妙に鼻毛みたいなものまで生えている。

すっかり萎えてしまった私は、そのページを閉じてしまおうかと思った。

しかし、これまで何匹ものガガンボを素手で捕まえ、シャワーで流し、おまけにお風呂の洗剤を吹きかけて、排水溝に流してきた私は、このまま奴らの生態を詳しくしらないまま、そのページを閉じることに、何とも言えない罪悪感のようなものを感じた。


ためらいながら、もう一度写真に目を向けると、
その拡大された複眼が、「俺のことをもっと知ってくれ!」と訴えているような気さえしてきた。


他の虫だったらきっとこんなことは考えないだろう。だが、風呂場にたむろするガガンボたちは、今や、ひと時だけの我が家の住人と化していた。


意を決して、電子辞書を片手に読み始めた。


そもそも単語がわからないから、その度に辞書で検索することになる。

そしてまた厄介なことに、専門的な単語の多いこと。電子辞書には載っていなくて、ネットで調べてようやくわかる単語というのも多々あった。

tipuloidea(双翅目ガガンボ上科に属する昆虫の総称)やparaphyly(側系統)、sternite(腹板筋片)なんて単語は、英語が得意な人でもなかなかお目にかからない単語だと思う。


正直言って、私は日本語の双翅目が何を意味するのかすら知らなかった。

*双翅目・・・見た目には2枚しか翅がないように見える昆虫


そんなこんなで、よくわからないままに読み進めていったのだが、おおまかにガガンボの生態について知ることができた。


・成虫になったガガンボは10~15日しか生きないために、何も口にしないこと。

・幼虫はレザージャケットなんてかっこいい名前でも呼ばれていること。

・クモ、魚、両生類、鳥、哺乳類など、天敵が多いこと。

・ヨーロッパでは害虫としての認識が強いこと。


そんな中でも、私の目を引いたのは、こんな部分だった。

"The adult female usually contains mature eggs as she emerges from her pupa, and often mates immediately if a male is available. Males also search for females by walking or flying."

(成虫のメスは、さなぎから出てきたときにはすでに成熟した卵を抱えており、オスがいればすぐに交尾する。オスもまた、歩いたり、飛んだりしながらメスを探す。)

あの長い足で歩きながら、メスを求めるオスの姿を想像すると少し滑稽に思えたが、残された時間の少なさもあってか、ガガンボたちは子孫を残すことにそれだけ必死なのだなと、私は納得した。

そのページは、二匹のガガンボが尾部を突き合わせて交尾している写真まで載せてくれていた。
 
親切なことだと思う。




さてその夜、私が風呂に入ろうとして浴室に入ると、目の前のタイル張りの壁で、二匹のガガンボが交尾をしていた。


体勢は写真とは若干異なっていたが、それは確かに交尾だった。


人の家の浴室で事を為すとは、なかなか度胸が座っている。


垂直な壁の上で交尾をするというのは、一体どんな気分なのだろう


そんな疑問も抱いたが、私にはその光景がなぜか微笑ましく思えてしまった。


ほとんど仲人のような気分になって、その日はガガンボたちにお湯がかからないようにしてシャワーを浴びた。