足るを知る
私は優柔不断である。
自分で何かを決めることが苦手だし、何かを提案されても、すぐに決断を下すことができない。
たいして重要でないことでも、その決断をしたことで後々どういうことになるのかをいちいち考えてしまう。
例えば、友人から食事の誘いを受けたとする。
何を食べるのか、他に誰が来るのか、二次会はあるのか、何時頃解散するのか、どれくらいお金を使うのだろうか、
私の脳はそんなことを真剣に検討し出す。
もちろん、こういうことを考えるのは私だけではないだろう。私のように、特にそこまで外交的でもない人間ならばなおさらだ。
この類の人間は、たいていの場合、脳内で次のような議論を戦わせている。
A「さっさと行くって返事しちまえよ。散々返事を待たせた挙句、やっぱり来れませんなんてなったら、向こうも白けるだろ?」
B「わかってるよ。だけど、食事会って飲み会のことだろ?君も知っての通り、僕はお酒が飲ないんだ」
A「お前ただでさえ友達少ねえんだからよぉ、こういう時くらい人付き合いいいとこ見せとかねえと、救ねえ友情すら失っちまうことになるぜ?」
B「ふん、そんなことで離れていくような連中なら、そもそも最初から友人でも何でもなかったってことさ」
A「そんなことばっか言ってると、そのうち本当にぼっちになっちまうぜ?そんときになって気づいても、時すでに遅しっつうもんだ。どうせその日は暇なんだろ?ん?だったらいいじゃねえか」
B「暇だって?何を言ってるんだ。暇っていうのは誰かのために使った瞬間に、暇じゃなくなるんだよ。DVDに録画しておいたアメトークだって観なくちゃいけないし、僕はできることなら自分の時間は全て自分のために使いたいんだ」
A「たかだか一回の食事で生活が困窮するほど金が飛ぶわけでもないし、一日くらい、朝帰りになったって死ぬわけじゃねえだろう?」
B「一度あることは二度目もあるし、二度あることは三度あるんだよ」
A「そんなつれねえこと言うなよ、相棒。もしかしたら、お前が気になってる○○ちゃんが来るかもしれないぜ?」
B「騙されないぞ。○○ちゃんは僕のことなんて眼中にないし、来るって言ってもどうせ直前になってドタキャンするに決まってる。今までだって何度もあったじゃないか。それに本来、飲み会なんかに僕の貴重なお金を使いたくなんてないんだよ!」
A「バッキャロー!んなこと言ってっから、いつまで経っても根暗根暗っつって馬鹿にされてんだろうが。ゴチャゴチャ言ってねえで、さっさと返事しやがれやこのアホンダラぁ!誘ってもらえてるだけありがてえと思いやがれ!!」
B「うっ!」
私の場合、たいていはAが勝利を収め、私はいそいそと飲み会に出かけていくことになるのだが、明け方、ぼろ雑巾のようになって家に帰り着く度にいつも、本当にこれでよかったのだろうかと勝手に落ち込みながら泥のように眠るのだ。やはり、○○ちゃんは来なかった。
脳裏では、やけくそになってカラオケで歌った「酒と涙と男と女」が自動再生で何度も繰り返し流れることになる。
優柔不断だと、過ぎてしまった決断についてもついつい後悔してしまいがちだ。
だがそれは、過ぎてしまった決断というよりもきっと、何かをきっちりと決断できなかったことに対する後悔なのだろう。
そういった人間は、良く言えば慎重ということなのしれないが、悪く言えば、少しでも間違った決断をして損をしたくないという、ケチケチ根性丸出しの欲張り人間と見ることもできる。
もちろんこういうのは自分自身の性だからしょうがないことでもあるが、情報化社会やグローバル化の流れの中で、価値観や行動の選択肢が増えたことも、私のような優柔不断人間を増加させる一因なのではないかと思ったりもする。
例えば、私は石原さとみと長澤まさみ、どちらを結婚相手にするかで悩んだりはしないし(悩めたら最高にハッピーだが)、実質的に世界最強の権力者であるオバマ大統領を羨んだりはしない。
人間、最初から自分の手の届かないところの問題で悩んだりはしないものだ。
しかし、私たちが生きている21世紀では、親や祖父母の時代とは比べものにならないほど、いろいろなものに手が届くようになったし、選択できる自由も増えた。
確かにそれは本当に素晴らしいことではある。自由は何にも代えがたいものだ。
とはいえ、私のような人間にとってそれは、分かれ道が多くなって道に迷う確立が高くなることも意味している。
当然、情報の荒波を上手に渡っていける人もたくさんいる。だが残念ながら、私はそうではない。選択肢が増えれば増えるほどまた、それに伴うストレスも大きくなる。
そんな状況を考えると、自由の尺度は人それぞれだが、選択肢が少ないというのもあながち悪くはないのかもしれない。ふとそんなことを思った。
その後、小さくて品ぞろえが少ないスーパーで買い物をしてみた。いつもはもっと大きくて、品ぞろえも豊富なお店で買い物をするのだが、その日はあえて小さな店で買い物をした。店内は閑散としていて、陳列棚には空白も目立っていた。
それでも、私はそこにあるものを買い物かごに入れていった。野菜や果物はみずみずしさに欠けていたが、選べる商品が少ないだけに、余計なことをあまり考えずに放り込んでいった。なんだか気分が楽だった。
家に帰って、買った食材を調理して食べた。特別美味しいというわけでもないが、特別まずいわけでもない。それでも、わざわざ余計なものを選んで買って食べなくても、十分に満足できるのだと、偉そうに悟った気分になりながら私はありがたくその日の夕食を食べたのだった。
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翌日、私はトイレに籠ることになった。