がんちむの備考帳

身近なことを一生懸命考えると、どうでもいいことがどうでもよくなくなったり、どうでもよくないことがどうでもよくなったりします。

映画鑑賞 幸せの意味を考える

人はどこまで社会から隔絶された環境で、己の力だけで生きてゆけるのだろうか。


私は人付き合いが得意な方ではないし、できることならなるべく一人で時間を過ごすのが好きなタイプの人間だが、とはいえ、この社会で生きていくには、少なからず他人と関わっていかなくてはならないし、相手が多少いけ好かない奴でも意識して口角を引っ張り上げなくてはならない。


それが嫌なら、アマゾンの灼熱のジャングルやシベリアの凍える大地でサバイバルをするより他はない。


そのことを考えると、やはり本当にたった一人で生きていくというのは私にはできそうもない芸当だと思う。


一人で旅行に出かけるくらいは平気でやってきたし、むしろそういうのは好きなのだが、それは旅先にちゃんと人がいて、もし困ったことがあれば、近くの交番にでも駆け込んで助けてもらえるという安心感があるからできることである。


全く文明化されていない、人一人周囲にいない世界に行けと言われたら、たとえそれが一日や二日のことであっても私はためらうかもしれない。


なんだかんだで、私は人が恋しいのだ。


大自然の中で生きていく知恵が私には備わっていないというのはもちろんあるが、それ以前に、信念の問題として私は一人では生きていけないだろう。


横井庄一さんや小野田寛郎さんは、東南アジアの森の中で戦後二十年以上に渡って、たった一人で生き抜いてきたわけだが、それをさせたのは、彼らの中にあった、日本が戦争に負けるはずがない、または上官の命令を貫徹しなければならないという、揺るぎない信念だったと思う。


私のように、ただなんとなく人付き合いが苦手だからといった理由でジャングルの中に一人分け入っても、おそらく一週間と持たないであろうし、無理をすれば、数か月後に白骨死体となって発見される可能性もある。


しかしながら、社会のしがらみを全て投げ捨てて、一人大自然の中に身を置くというのが私にとって一種の憧れであることは確かだ。


『Into the Wild』という映画をDVDで観た。


1992年にアラスカで腐乱死体となって発見された青年クリストファー・マッキャンドレスを題材にしたノンフィクション『荒野へ』の映画版なのだが、この映画を観て私が感じたのは、人生の幸福や不幸は、物の豊かさや効率の良さでは決して決まらないのだということだ。


主人公のクリストファーは、大学を優秀な成績で卒業し、ハーバードのロースクールに進学できるほどだったそうだ。しかし彼はそうはしなかった。


全財産を慈善団体に寄付し、カードや身分証も捨てて、その身ひとつで旅に出た。道中、様々な人と出会いながら、二年の旅の末にアラスカに辿り着き、そこで自給自足のサバイバル生活を始めるが、最終的には餓死してしまう。


彼が最後に何を思ったのか、それは誰にもわからないが、彼がこの旅を後悔していないことだけは確かだろう。


彼は幸せの答えをお金や物に求めなかった。


私にこういう生き方ができるだろうか。おそらく難しいだろう。


それでも、クリストファーの生き様は、幸せの価値観について私に問いかけているように感じた。


私たちが生きている文明社会では、右も左も物質で溢れているが、その中で生きている私たちは、アラスカの大地で死んだクリストファーよりも幸せだと言えるだろうか。


前川清の歌で、『東京砂漠』というのがあったらしいが(私の母親が昔よく聴いていたので覚えている)、私たちが生きているこの文明社会もある意味では殺伐として、アラスカの大地と変わらない、孤独な環境なのかもしれない。


そしてそんな環境の中では、誰もが安心して息をつけるオアシスを必要としている。


もしかしたらクリストファーは、そのオアシスを見つけたのかもしれないなと、そんなことを私は思った。


蛇足だが、この映画で主演を務めたエミール・ハーシュは、その後2015年に、映画会社副社長の首を絞めて、暴行罪で逮捕されている。


ある意味でInto the Wild(蛮人に)を地で実践した形になったが、クリストファーのストーリーから得られる教訓は、そんなものではないはずだ。