がんちむの備考帳

身近なことを一生懸命考えると、どうでもいいことがどうでもよくなくなったり、どうでもよくないことがどうでもよくなったりします。

スターウォーズとコンドーム

全世界が待ちに待った大作「スターウォーズ フォースの覚醒」。SWファンの私としては続編の制作が発表されてからこの二年間、首をながーくして待っていた。

 

公開された翌日の土曜日、早速映画館に足を運んだ。事前にネット予約をしていたから問題なくチケットと席は確保できたけど、映画館のエントランスでまず目についたのは、子供たちの多さだった。休日ということもあってか、父兄の手をひっぱりながら、こっちこっちとチケット売り場へ殺到する。自動券売機の真上に設置されたモニターには、「12:00~ 妖怪ウォッチ満席」の赤い文字がでかでかと表示されていた。

 

少なからずショックだった。日本の子供たちにとっては、世界のSF超大作より、ジバニャンの方がずっと大事なのだ。だけど自分が子供だった頃もたぶんこんなんだったのだろうと思う。エピソードⅠが公開された当時、私はポケモンに夢中になっていたのだから。長蛇の列を眺めながら、私はもう自分が若くないことを実感した。ゲームボーイに夢中になっていた時代が懐かしい。

 

それはさておき、映画は最高だった。これぞスターウォーズ、これぞハリウッド!もう最初から最後まで興奮しっぱなしだった。

 

ミレニアム・ファルコン号が出てきたときは鳥肌もので、第一作の公開当時は生まれてもいない私はなぜか目頭が熱くなってしまった。どうやら私は、時代を感じさせるものに弱いらしい。その証拠に、尊敬するオビ・ワン兄さんが、この時代ではもうとっくにいなくなっていることを思い出してぽっかりと心に穴が開いたような喪失感も感じた。

 

しかし、捨てる神あればなんとやら。デイジー・リドリー演じる新主人公のレイがめっちゃ美人だったことで、私は一瞬にして彼女の虜になってしまった。これからの新シリーズ、私は彼女だけを見ていくことにしよう。

 

ライトセーバーでの戦闘シーンのとき、私はなぜか学生時代の友人を思い出していた。あれは大学に入学したての春だった。その友人は昼休みの人気が少ない講堂で、昼食をとりながらコンドームの種類について私に説明してくれた。最近のコンドームは本当におしゃれなものが多くて、中には蛍光塗料を塗ったものまであるらしい。

 

「暗闇で使うと、まるでライトセーバーみたいなんだぜ」

 

ライトセーバーが触れ合い、スパークするような音が劇場内に響いていたが、同時に私の脳裏では、彼の楽しそうな声が脳裏に蘇っていた。その彼が今、どこで何をしているのか知らないが、今も元気に夜のジェダイとして活躍してくれていれば幸いだと思った。

 

 満足感を抱いたままの帰り道、友人が運転する車の後部座席に私は座っていた。しかし高速道路に入ったとき、料金所を抜けたところでお巡りに車を止められた。

 

 青い制服を身にまとい、ヘルメットをかぶったそのお巡りは、人のよさそうな笑みを浮かべて言った。「後ろの方、シートベルトをしていらっしゃいますかね?」

 

僕はしていなかった。

 

運転席の友人は見逃してくれるように懇願した。「そこんとこをなんとか」とか、「もうすぐ更新なんです」とか、ありとあらゆる言葉を駆使して必死で食い下がっていた。

 

我々にフォースが使えれば、お巡りさんの心を操作して、見逃してもらうこともできたのだろう。しかし残念ながら、非常に残念ながら、我々はジェダイではなかった。

 

友人は罰金にこそならなかったものの、点数を引かれて次回の免許証更新ではゴールドではなくなるそうだ。罪悪感を感じた私は、その日の夕食をご馳走することを提案したのだが、友人はそんな必要はないと言い、私はちゃんとシートベルトを締め、結局安全運転で家に帰り着くことができた。

 

 

そして今、私はこの文章を書いているわけだが、私の心は晴れない。なんならかの形で、私のせいでゴールドを逃した埋め合わせをしたいと思っている。

 

私はパソコンでこの文章を書きながら、同時にネットショッピングのページも開いている。

 

検索欄には「コンドーム 光るやつ」。

 

私は彼にフォースを与えることはできないが、せめてライトセーバーだけでもプレゼントしたい。こうして調べてみると、いろんな色があって、見ているだけでも意外と楽しい。彼は何色がいいだろう。ちなみにルークのライトセーバーは青だ。でもやっぱり・・・、

 

ゴールドかな。

映画「進撃の巨人」を観に行った。

 

 ジュラシック・ワールドといい、進撃の巨人といい、この夏は人が食べられる映画しか見ていない気がする。

 

私の心のどこかで、そういう自滅願望みたいなものがあるのだろうか。

 

それとも、私の内奥に潜むどす黒い攻撃欲求が、そういった刺激を求めているのだろうか。

 

確かに、常にストレスは溜まっている。

 

嫌いな人間はたくさんいるし、中にはこの世からご退場願いたいくらいの人間もいる。そして向こうも私に対してたぶん同じことを思っている。

 

 だから私はよく、想像の中で殺人を犯しているのだけれど、私がその相手を殺すとき、用いるアイディアは決まって銃殺か爆殺である。

 

ゴッド・ファーザーのアル・パチーノよろしく、スマートに相手のドタマをぶち抜くか、ブラックラグーンバラライカのように、ビルの一室に相手を縛り付けて閉じ込めたまま、ビルごと派手に爆破するのだ。

 

こう書いてみると、マフィアものばっかりだな。

 

 もちろん、私にはドン・コルレオーネやミス・バラライカほどのカリスマ性も度胸もないが(あったらあったで大変だけど)、ビビりな小物なりに、ハードボイルドやダンディズム的なものに憧れているのだ。

 

 

新入社員だった頃、新人研修で、みんなの前に出て喋る機会があった。

 

みんなと言っても、同期の社員二十数名と、監督役の上司が二人くらい。

 

上司がいろいろと質問を浴びせて、それに答えていくという形式の茶番だったけれど、私に対する質問の中で、「趣味は何ですか?」というのがあった。

 

ああ、よくあるね。その質問。

 

私としては、大した趣味もないし、できることなら一日中鉢植えのパキラのようにじっとしていたい人間なのだが、上司の手前、エントリーシートの趣味・特技の欄に記入した、「読書、映画鑑賞、ランニング、カラオケ」というインドア派四点セットを上げた。

 

ランニングは屋外活動だが、私が実際にしていたのは、夜中に、たまにジョグする程度の散歩である。横文字にした方が、なんとなくウケがよさそうだと思っただけ。

 

 私は、質問をした上司がカラオケに食いつくとヤマを張っていたのだが、上司は意外にも映画について深く追及してきた。

 

「どんな映画が好きなの?」

 

「マフィア映画です」

私はさらりと言った。別に本気でそう思っていたわけではないけれど、その前日か二日前、たまたまゲオで借りたゴッド・ファーザーPARTⅡを観たばかりだったから、つい頭に浮かんだのだ。

 

「どうしてマフィア映画が好きなの?」

 

上司は笑いながら言う。だから私も笑顔で答えた。

 

「嫌いな人間がいたとして、映画の中で殺されている人に、そいつの姿を重ね合わせると、少しはストレス発散になります」

  

半分は冗談のつもりだったのだけど、部屋を見渡してみると、皆一様に頬を引きつらせて私に注目していた。

 

数秒の沈黙の後、小さなせせら笑いが聞こえ、上司も苦笑していたけれど、目は笑っていなかった。

 

 

数年経って、映画館のスクリーン上で暴れまわる巨人たちを見ながら、新しいストレス発散のイメージを発見したなどと考えていた私は、やはりどこかしら間違っているのかもしれない。

 

断っておくが、私は決して誰かに危害を加えてやろうなどという、反社会的なことは考えていない。

 

映画館に行ったのだって、本当はミニオンズを観るつもりだったのだ。

 

だけども、ミリオンズが完売で席が空いていなかったので、仕方なく進撃の巨人にシフトチェンジしたのだ。

 

夏休み最後の日曜日ということもあり、映画館はちびっ子たちで溢れていた。

 

家でおとなしく、終わっていない夏休みの宿題でもしていてくれたら、私が巨人たちを見ながら妙な妄想を働かせることもなかったかもしれない。

 

そんな考えが一瞬脳裏をかすめたが、もちろん余計なお世話である。私だって、まともに夏休みの宿題なんてやっていなかったのだから。

 

 

家に帰って、お風呂に入りながら、ぼんやりと映画のことをもう一度考えていた。

 

巨人に食い殺されるというのは斬新な死に方ではある。今までに人類の誰一人として経験していないのだから。

 

そんなくだらない妄想にまだ浸っていた。

 

だが、そんな風に斜に構えて物事をいつも見ているからだろうか。 

 

私は目下の現実すらも、まともに把握できてはいなかったことを悟った。

 

シャンプーをして鏡を見る。

 

何度も目を皿にして見る。

 

目を血走らせて見る。

 

頭皮という名の世界で、私のウォールマリアはほとんど崩壊しかけているのだった。

 

不思議の国のチョルス 中編

韓国からやってくる友人、チョルスを迎えるにあたって心得ておかなければならないこと。

 

第一に、彼はとにかく人を集めたがる

第二に、彼は遠慮をしない

第三に、彼はドがつくスケベである

 

今日は二番目について。

 

②彼は遠慮しない。

 

大学生の懐事情には厳しいものがある。いくらバイトをしているとはいえ、頻繁に人に何かをおごってやることなんてできない。

 

しかし、日本に来たチョルスは、そんなことはおかまいなしに食事をおごらせようとする。

 

もちろん私は、自分で払えよ、と言う。

 

だが彼の言い分はこうだ。

 

「久しぶりに日本に来テ、こして会ったんダカラ、まあ少しくらい、おごってくれてもいいジャン」そして苦笑しながらこう付け加えるのだ。「オマエ、ケチダネ~」

 

 

別に久しぶりでも何でもないのだが、まあ日本人である私がホストの立場になるのは事実である。

 

それに、チョルスが私のところに滞在するのはせいぜい二、三日だ。異国の友人に一回や二回食事をごちそうしてあげるくらいでガタガタ言うのも情けない話なので、私はため息をつきながら財布を取り出すのだ。

 

ある夏の日、私が住む町にやってきたチョルスは、ほっともっとの弁当が食べてみたいと言い出した。ほっともっとをどこで知ったのかは不明だが、時刻は夕方の六時を回ろうとしていたので、私は彼と二人で近くのほっともっとのお店に行くことにした。もちろん、私のおごりである。

 

お店に着くと、ガラス張りのドアが開いて私たちは中に入った。カウンターには、女子大学生のアルバイトが立っていた。

 

「ご注文を承ります」

 

彼女がしおらしく言うと、我らがチョルス氏はメニューを見ることもせずに、

 

「ビーフステーキ弁当をお願いシマス」

 

高らかにそう宣言した。

 

ちょっとチョルスさん?今なんとおっしゃいました?

 

私は一瞬だけ耳を疑ったが、確かに彼はそう言った。

 

もうちょっと、なんつーかな。苦学生の懐事情を考慮していただけると…

 

そんなことを考えたが、今更詮無いことである。

 

正面に視線を移すと、店員が、あなたは何になさいますか?的な目で私を見ていた。

 

私は平静さを装いつつも、いつもの唐揚げ弁当を注文した。

 

家に帰って食事を済ませた後、彼は満足そうにごろりと横になった。彼が動いた風圧で、ひらりと一枚のチラシが舞う。郵便受けに入っていたのを、適当に床に重ねて置いていたものである。

 

私はそれを拾って視線を落とす。

 

白いご飯の上に乗り、肉汁をたらすビーフステーキの写真がでかでかと載っていた。ほっともっとのチラシだった。

 

…なるほどね。私はそう思った。

 

そして一年後の夏、チョルスはまたやってきた。そのときの彼は別の知人の家に泊まっていたのだが、私とも会うことになった。

 

その日は日本に台風が近づいていたので、あまり家から出たくなかったのだけれど、渋々、駅で待ち合わせをする。彼は当然のごとく、約束の時間に三十分ほど遅れてやってきた。

 

ちょうどお昼時だったので、食事にしようということになった。

 

彼は焼肉が食べたいと言い出した。しかも食べ放題をご所望の様子。

 

とはいえ、私としてはそもそもお昼からそんな重たいものは食べたくなかったので反対した。焼肉なら、韓国に帰ってたらふく食べればいいではないか。

 

しかしチョルスは、それでも焼肉が食べたいと言う。

 

どうしたものかと思い、辺りを見回してみたが、焼肉屋なんて見当たらなかった。

 

私たちはしばらく焼肉屋を探して歩きまわった。雨はまったく降っていなかったが、風が強くて、外を歩いている人も少なかった。

 

こんな日に自分は何をやっているのだろうと、少しだけ気持ちが萎えたが、努力の甲斐あって、ようやく一軒だけ見つけることができた。

 

だが近づいてみると、その店は夜しか営業していないらしく、その時間には開いていなかった。

 

がっかりするチョルス。しかし、その焼肉屋は商業施設の一角にあったので、隣には回転寿司のお店が並んでいた。

 

私たちは仕方なくそのお店に入ることにした。平日で、しかも台風の影響もあってか、店内には私たち以外の客はいなかった。

 

向かい合って席に座り、おしぼりで手を拭く。すぐ脇では、色とりどりのお皿が流れていた。

 

…色とりどり?

 

いやな予感がしたよね。

 

正面のチョルスに視線を移すと、彼はしげしげと、流れ来ては去ってゆく寿司ネタたちを見つめている。

 

私はここで、初めて自分の愚かさを悟った。

 

今までのチョルスの言動を鑑みれば、回転寿司は一番入ってはいけない場所だったのだ。とはいえ、時すでに遅し。

 

私は先陣を切り、さりげなく光ものの皿を取って、無言のプレッシャーを与えようと試みたが、チョルスは私が取った皿になどには一瞥もくれずに、二十年以上日本で生きてきて、私が一度も取ったことがない皿に、迷いもなく手を伸ばした。

 

私は思わず目を見開いて、彼が大トロを口に運ぶ様を凝視していた。ちょっとしたホラー映画を観ているような気分だった。

 

結局そのお店で、私は五千円以上の出費をすることになったのだが、言わずもがな、その八割はチョルスの腹の中に納まっていた。

 

ここまで書くと、チョルスはすごくお金にがめつい人間と思うかもしれないが、実際はそんなことはない。

 

一応誤解は解いておく。

 

前回登場した広島の友人が、韓国にチョルスを訪ねて遊びに行った際、チョルスは

食事代や交通費も含めて、一切のお金を出させなかったらしい。

 

「わざわざ日本から来てくれた友人をもてなすのは当然のことじゃないカ」と彼は言う。

 

こういった部分では義理堅くて律儀なヒョン(お兄さん)なのである。

 

私が韓国に言った際にも、「全力でもてなす」と公言しているチョルス。

 

そのときが楽しみである。

 

後編へ続く。

不思議の国のチョルス 前編

ある日、チョルス(仮名)から連絡がきた。

 

彼は年上の韓国人の友人で、韓国から時々連絡をよこしてくる。

 

今回の内容は、来月に日本に行くから空港まで迎えに来てほしい、とのことだった。

 

チョルスとは学生時代に日韓の学生交流事業で出会ったのだけれど、日本語がペラペラな彼は、その後もちょくちょく日本にやってきては、私や、その交流事業に参加していた友人たちを訪ねていた。

 

大学を卒業してまで付き合いが続くとは思わなかったが、それも彼が頻繁に連絡をくれたり、会いに来てくれたりするおかげだと思っている。

 

そんなチョルスだが、今回は福岡、広島、大阪、東京をめぐる、日本縦断一人旅を計画しているらしい。

 

それでスタート地点である福岡に住む私に連絡をしてきたというわけ。連絡を受けたのは私だけではなく、広島に住む共通の友人も、わざわざ福岡空港までチョルスを迎えに行くとのことだった。

 

ご苦労なこって。

 

心の中で私はそう呟いたが、仲のいい友人に久しぶりに会うのだから、広島の友人もきっと苦にはならないのだろう。

 

もちろん私としても、チョルスが日本に来るのは嬉しい。

 

その気持ちに嘘偽りはない。

 

ないのだが、彼を迎える場合、心得ておかなければならないことがある。

 

第一に、彼はとにかく人を集めたがる

第二に、彼は遠慮をしない

第三に、彼はドがつくスケベである

 

これらの要素により、私たちは体力的、精神的、金銭的に多少疲弊することになる。

 

今までがそうだった。

 

今回から三回に分けて、そんなチョルスのお話を書く。

 

今日は一番目について。

 

①彼はとにかく人を集めたがる

 

学生時代、夜中にチョルスから電話がかかってきたかと思えば、

 

「来週日本に行くから、泊めてくれ。もう船のチケットも予約しちゃったカラ」

 

そんなことを突然言い出し、そしてさらりと、

 

「朝の8時に到着するから、港まで迎えに来てネ」

 

そう言い残して電話を切る。 こんなことはよくあった。

 

 私が住んでいた場所から、その港までは電車で2時間ほどかかるので、私は始発に乗って彼を迎えに行くことになる(私は車を持っていない)。

 

あれは十二月のことだった。

 

真冬の場合、私はあたりがまだ真っ暗なうちから家を出て、凍ったサドルに跨りながら駅まで走った。

 

駅のホームで白い息を吐きながら一番列車を待つ。暗闇に伸びる線路を目で追っていくと、遠くに一点の明かりが見える。その光は少しずつ大きくなり、一番列車であることに気付く。前照灯が煌々と暗闇を照らしながらホームに入ってくる。

 

そして私は逃げ込むようにして、暖房の効いた車内に飛び乗るのだ。車内でウトウトとしているうちに、窓の外が少しずつ明るくなってくる。

 

そんな風にして港にたどり着き、人がまばらな到着ロビーで、彼がゲートから出てくるのを待つことになるのだが、朝が早かったのでここでも私は目を閉じて、椅子の背もたれに身をあずけることにした。

 

そのとき、左肩をトントンと軽く叩かれた。ゲートから出てきたチョルスが私を見つけたのかと思い、目を開けて振り向いたのだが、そこにいたのはチョルスではなく、前出の広島の友人だった。

 

「あれ、どうしたの?こんなところで」

 

私はそう言いつつ、彼の背後にも視線を送る。するとそこには、例の交流事業のメンバーが十人近く集まっているではないか。

 

「いやあ、チョルスに迎えに来いって言われちゃってね」

 

広島の彼は言った。

 

そう。チョルスは知っている友人に片っ端から連絡をして、港まで迎えに来させていたのだ。

 

 入国審査に時間がかかったらしく、私たちは小一時間は待たされることになったのだが、審査を済ませ、ゲートから出てきたチョルスの顔は実に晴れ晴れとしていた。

 

荷物が載ったカートを押し、笑顔を振りまきながらやってくる。

 

韓流スターか、お前は。

 

心の中でつっこみを入れながら、近づいてくるチョルスの顔を見た。

 

どう頑張ってもヨン様イ・ビョンホンには程遠い、ごくごく平凡な韓国人男性の顔つきだった。

 

しかし、眠気のせいなのか何なのかよくわからないが、私にはぼんやりと一瞬だけ、来日した彼を取り囲むファンたちの幻影が見えた気がした。

 

「どうして、わざわざこんなにみんなを集めたのさ?」

 

訊くと、チョルスはどや顔で、

 

「みんなに会いたかったカラネ」

 

恥ずかし気もなくそう言った。

 

その顔にはとても満足そうな笑みが浮かんでいた。

 

チョルスは来日するとき、後先考えずに、とにかく片っ端から友人に連絡する癖がある。

 

そうなると、必然的に大所帯になって、移動やお店に入るときに面倒なことになるのだが、

 

それでも人が集まるのは、彼の人望なのかもしれないと思った。

 

中編に続く。  

ドッペルゲンガー

先日、学生時代の友人であるサチエ(仮名)からLINEでメッセージがきた。

「がんちむ~!そっくりな人が今目の前通り過ぎてったからLINEしちゃった!笑」

私は福岡県の出身だが、県外の大学に進学し、四年間一人暮らしをしていた。彼女とは大学でゼミが一緒だったのだが、地元が同じということもあり、卒業後は二人とも同じ地元に帰って就職した。同じ街に住んでいるとはいえ、卒業以来、彼女とは一度も会ってはいなかった。せいぜいゼミで作ったLINEのグループで、誕生日のメッセージを送り合うくらいだ。

そんなサチエからのLINEである。

もちろん、世間は自分が思っているよりもずっと狭いので、思っても見ない場所で旧友に遭遇しても何ら不思議ではない。しかも私たちの場合は同じ街に住んでいるのだから、彼女が私の姿を目撃する確率は普通に考えればずっと高いのだろう。

しかしである。私はその日、地元にはいなかった。所用のために少し遠出をしていたのだ。

となると、彼女が目撃したという男は十中八九、私ではないはずなのだが、念のため以下の可能性を考えてサチエに提示してみた。

1. 未来の私がデロリアン的にタイムスリップしてきた。

2.サチエは私のドッペルゲンガーを見た。

3.単純にサチエの見間違え。

サチエは迷わずに2を選んだ。さすがである。自分の目は決して疑わないのだ。私はサチエが見たというドッペルゲンガーについて、お得意のウィキペディアで調べてみた。

予想通り、あんまり嬉しくなるようなことは書いていなかった。

ドッペルゲンガーとは自分とそっくりの姿をした分身なのだが、自分のドッペルゲンガーに会った人間は、近いうちに死ぬということだった。

記事によれば、芥川龍之介エイブラハム・リンカーンも、自身のドッペルゲンガーに会っているらしい。ご存知の通り、彼らは天寿を全うしてはいない。芥川は自殺し、リンカーンは暗殺されている。

私はげんなりした気分になりながらも、

「この街にいるなら、俺死ぬ確立高いな笑」

などという面白くもなんともない文章をサチエに返した。もうやけくそだった。

しかし彼女は盛り上がっているようで、

「やばいよ気を付けて笑やつはこの街にいるからね!高確率の死笑」

楽しそうに返してきた。

「死」の真後ろに「笑」ときたね。

私は若干頬を引きつらせながらその文面を目で追う。彼女はさらに続けた。

「保険契約しとき!私の窓口で!」

彼女は銀行の窓口で働いているのである。

すごいやこの人、めちゃくちゃ商魂たくましいんだもん。

かわいいうさぎのスタンプで、

「なんちゃって♡」

なんて付け足してくるあたりもさすがである。結局サチエは、

「窓口で暇してるから遊びにきてよ~」

とOL感満載な文章を送ってきて、私としても、

「そうだね~笑」

みたいな感じでそのやりとりは終了したのだが、ドッペルゲンガーに遭遇する可能性がある以上、私はビクビクしながら街を歩くことになるのだ。

なんせ「高確率の死笑」ですから。笑笑笑

向き不向き

以前買っておいた、C言語の入門書を早速読んでみた。



「はじめに」とあるページから読んでみるが、「人によって向き・不向きがある」なんていきなり書かれているものだから、私は少々臆することになった。



そこんとこをわかりやすく教えてくれるんじゃないのかい、と思いつつも、やはりそういうものなのだろう。誰でも理解できるものなら、ザッカ―バーグがもてはやされることもなかったのだから。




私みたいな人間からすれば、プログラム言語というのは一部の選ばれた者だけが進むことを許される聖域のように思えてしまう。



それが「向き・不向き」ということなのかもしれないが、幸いなことに、ここ日本では学問の自由が保証されている。



それに、わかりやすいかそうでないかは人それぞれの主観だし、もしどうしてもわからなかったら、その本をほっぽり出して、頭の上から毛布をかぶって寝てしまえばいい。



そんなわけで、私は未知の大海原へと漕ぎ出したのであるが、プログラムって、どこに何を記述すればいいのだ?そもそもコンパイラって何だ?



そんな初歩的な疑問からつまずいてしまう。



だが、千里の道も一歩からだ。私はわからないところでもとりあえずはしっかりと目を通しながら、
わかるところを少しずつ拾い集めていく感覚で読み進めていくことにした。



文字列を表示するには、printf()を使えばいいのだな。とか、\nと入れれば改行できるのだな。とか、そんな基本中の基本から学んでいく。



ほうほう、これは幸先いいスタートだぞ。



本を読みながら、気づけば鼻歌なんか口ずさんでいた。



ロマンスがありあま~る♬
ロマンスがありあま~るう~う~♪
少し贅沢をしすぎたみたいだあ~♫



確かにこんな調子でいけば、少し贅沢かもしれない。



しかし、そんなことを一瞬でも考えた私が馬鹿だった。



次のページをめくり、「変数」とやらが出てきた瞬間、私の贅沢は終わった。
その間、たったの6ページだった。



「変数」とは、値をいれるための箱のようなものらしいのだが、
intとかcharとかいう型の中に、整数だったり文字だったりを代入して使うとのことだ。



ちなみに、intは「イント」、charは「チャー」と読む。



そういえば中高生の頃は、数学の代入とかって苦手だったな。



そんなほろ苦い青春の記憶が蘇ってきたが、思い出に浸っていても仕方がないので、覚悟を決めて読み進める。



しかし、目を血眼にして読んでみても、苦手意識を持った私の頭脳はそれらを全く受け付けなかった。



チャーがあいつで、あいつがチャーで・・・
しまいには、こちらにお尻を向けて振り向いているたむけんの姿が目に浮かんだ。



もう諦めようかな。私はふとそう思ったが、とっさに頭を振って思い直す。



かの発明王エジソンも言っていたではないか。



天才とは、1%のひらめきと99%の努力である、と。



こんなにすぐに諦めていては、できることもできないままだ。



私は自分を奮い立たせ、よく理解できない記号の羅列に挑み続けた。



だが現実は甘くはない。



一つ一つ確認しながら読んでいっても、「制御文」とやらに入ったころには、私の脳内は既に雷鳴轟く魔界と化していた。



if文とかwhile文とかいろいろな制御文があるのはわかったが、



頭の中ではwhyとwhatだけがコウモリの群のように飛び交っていた。



私はその魔界を何とか切り抜けて最後のページまでたどり着いたが、手に入れたものはお宝でも、魔王に捉えられていたお姫様でもなく、充血した目とひどい肩こりだった。



手っ取り早く天才になりたい。



私はそう思った。

足るを知る

私は優柔不断である。



自分で何かを決めることが苦手だし、何かを提案されても、すぐに決断を下すことができない。



たいして重要でないことでも、その決断をしたことで後々どういうことになるのかをいちいち考えてしまう。



例えば、友人から食事の誘いを受けたとする。



何を食べるのか、他に誰が来るのか、二次会はあるのか、何時頃解散するのか、どれくらいお金を使うのだろうか、



私の脳はそんなことを真剣に検討し出す。
もちろん、こういうことを考えるのは私だけではないだろう。私のように、特にそこまで外交的でもない人間ならばなおさらだ。



この類の人間は、たいていの場合、脳内で次のような議論を戦わせている。



A「さっさと行くって返事しちまえよ。散々返事を待たせた挙句、やっぱり来れませんなんてなったら、向こうも白けるだろ?」



B「わかってるよ。だけど、食事会って飲み会のことだろ?君も知っての通り、僕はお酒が飲ないんだ」



A「お前ただでさえ友達少ねえんだからよぉ、こういう時くらい人付き合いいいとこ見せとかねえと、救ねえ友情すら失っちまうことになるぜ?」



B「ふん、そんなことで離れていくような連中なら、そもそも最初から友人でも何でもなかったってことさ」



A「そんなことばっか言ってると、そのうち本当にぼっちになっちまうぜ?そんときになって気づいても、時すでに遅しっつうもんだ。どうせその日は暇なんだろ?ん?だったらいいじゃねえか」



B「暇だって?何を言ってるんだ。暇っていうのは誰かのために使った瞬間に、暇じゃなくなるんだよ。DVDに録画しておいたアメトークだって観なくちゃいけないし、僕はできることなら自分の時間は全て自分のために使いたいんだ」



A「たかだか一回の食事で生活が困窮するほど金が飛ぶわけでもないし、一日くらい、朝帰りになったって死ぬわけじゃねえだろう?」



B「一度あることは二度目もあるし、二度あることは三度あるんだよ」



A「そんなつれねえこと言うなよ、相棒。もしかしたら、お前が気になってる○○ちゃんが来るかもしれないぜ?」



B「騙されないぞ。○○ちゃんは僕のことなんて眼中にないし、来るって言ってもどうせ直前になってドタキャンするに決まってる。今までだって何度もあったじゃないか。それに本来、飲み会なんかに僕の貴重なお金を使いたくなんてないんだよ!」



A「バッキャロー!んなこと言ってっから、いつまで経っても根暗根暗っつって馬鹿にされてんだろうが。ゴチャゴチャ言ってねえで、さっさと返事しやがれやこのアホンダラぁ!誘ってもらえてるだけありがてえと思いやがれ!!」



B「うっ!」



私の場合、たいていはAが勝利を収め、私はいそいそと飲み会に出かけていくことになるのだが、明け方、ぼろ雑巾のようになって家に帰り着く度にいつも、本当にこれでよかったのだろうかと勝手に落ち込みながら泥のように眠るのだ。やはり、○○ちゃんは来なかった。
脳裏では、やけくそになってカラオケで歌った「酒と涙と男と女」が自動再生で何度も繰り返し流れることになる。



優柔不断だと、過ぎてしまった決断についてもついつい後悔してしまいがちだ。



だがそれは、過ぎてしまった決断というよりもきっと、何かをきっちりと決断できなかったことに対する後悔なのだろう。



そういった人間は、良く言えば慎重ということなのしれないが、悪く言えば、少しでも間違った決断をして損をしたくないという、ケチケチ根性丸出しの欲張り人間と見ることもできる。




客観的に見てみると、こういう人間は結局得るどころか、逃すことのほうが多いのだろう。
二兎を追う者は一兎をも得ずというやつだ。



だが私はおそらくそういう人間だと思う。
石橋を叩いて渡るという諺があるが、私の場合は石橋を叩いて叩いて叩き潰してしまい、対岸の宝を逃してしまう。



そのくせ、もし無事に橋を渡ることができたとしても、橋を渡ったところであっけなくトラップにはまったりするタイプだ。つまりは、大事なところを見極められていないのだ。



もちろんこういうのは自分自身の性だからしょうがないことでもあるが、情報化社会やグローバル化の流れの中で、価値観や行動の選択肢が増えたことも、私のような優柔不断人間を増加させる一因なのではないかと思ったりもする。



例えば、私は石原さとみ長澤まさみ、どちらを結婚相手にするかで悩んだりはしないし(悩めたら最高にハッピーだが)、実質的に世界最強の権力者であるオバマ大統領を羨んだりはしない。



人間、最初から自分の手の届かないところの問題で悩んだりはしないものだ。



しかし、私たちが生きている21世紀では、親や祖父母の時代とは比べものにならないほど、いろいろなものに手が届くようになったし、選択できる自由も増えた。



確かにそれは本当に素晴らしいことではある。自由は何にも代えがたいものだ。
とはいえ、私のような人間にとってそれは、分かれ道が多くなって道に迷う確立が高くなることも意味している。



当然、情報の荒波を上手に渡っていける人もたくさんいる。だが残念ながら、私はそうではない。選択肢が増えれば増えるほどまた、それに伴うストレスも大きくなる。




そんな状況を考えると、自由の尺度は人それぞれだが、選択肢が少ないというのもあながち悪くはないのかもしれない。ふとそんなことを思った。



その後、小さくて品ぞろえが少ないスーパーで買い物をしてみた。いつもはもっと大きくて、品ぞろえも豊富なお店で買い物をするのだが、その日はあえて小さな店で買い物をした。店内は閑散としていて、陳列棚には空白も目立っていた。



それでも、私はそこにあるものを買い物かごに入れていった。野菜や果物はみずみずしさに欠けていたが、選べる商品が少ないだけに、余計なことをあまり考えずに放り込んでいった。なんだか気分が楽だった。



家に帰って、買った食材を調理して食べた。特別美味しいというわけでもないが、特別まずいわけでもない。それでも、わざわざ余計なものを選んで買って食べなくても、十分に満足できるのだと、偉そうに悟った気分になりながら私はありがたくその日の夕食を食べたのだった。










翌日、私はトイレに籠ることになった。